未熟者の語ること

私が思いついたことを語るだけです。

将棋のプロ棋士が目指すところは何?個性じゃないでしょう―『棋士の一分』を読んでの感想

続きです。

橋本さんは棋士が将棋ソフトを用いることの危険性について以下のように述べています。

「将棋というゲームは...個性,独創性といった要素が見られなくなっていくのかもしれない。そうなっていったとき,その将棋がファンがお金を払ってでも見たいと思うものなのか私には疑問だ」(p.145)

この文を見たとき,「えっ」と思いました。ここで語られている「理想の棋士」は私 (や恐らく他の将棋ファン) が求めるような棋士とは違うような気がしたからです。

私が見たい将棋は端的に言って「強い棋士の将棋」です。「弱い棋士の将棋」は,たとえそこにどんな個性があろうとも,みていて何も面白くありません。

そもそも,「個性的な将棋を指す棋士にファンがつく」というのはどういう論理の帰結なのでしょうか。羽生さんが有名なのは,将棋に個性があるからではなくて,強いからです (羽生さんは将棋に個性がないということで有名ですね)。藤井さんが有名なのは,「ガジガジ流」ではなくて,「強い戦法」を編み出したからです。個性的な将棋を指す棋士にファンがつくような例って探すほうが難しいんじゃないでしょうか。

橋本さんが仰りたいのは恐らく,「強くて個性のある棋士」がソフトを使って研究することで,「ただ強いだけの棋士」になってしまうことを危惧しているんじゃないでしょうか。たしかにそれは寂しいことです。だけど,ソフトを使って研究することでさらに強くなるという一面もあるわけです。だとすれば,「強さ」と「個性」どちらをとるか,という話になります。その比較であれば,当然私は「強さ」が大事だと思います。

『棋士の一分』を読んで

先日,将棋のプロ棋士である橋本崇載八段の棋士の一分」という本を拝読しました。内情を知るプロ棋士が,将棋ソフトの出現に対する将棋連盟 (特に,米長邦男元将棋連盟会長) や中年くらいの何もしなかった棋士たちに向けて苦言を呈するといった内容で,ドキドキしながら読みました。

さて,出版月から言って,当然問題となった三浦九段についてはほとんど何も書いていません。では何が書かれているか,といえば,

1. 米長元会長の将棋ソフトへの対応に対する批判

2. 将棋ソフトとの関わり方について

3. 将棋連盟の運営について

といったところでしょうか*1

将棋連盟の運営については私は部外者ですからよくわかりません。傍から見て「外部の委員を入れればいいのになあー」と思っているくらいです。まあ現実はそんなに簡単ではないのでしょう。

私がここで論じたいのは,将棋ソフトや将棋のプロ棋士に対する橋本さんの考え方,捉え方についてです。ちょっと長くなりそうな予感がしたので,次の記事から話すことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:この本では将棋ソフトを「コンピュータ将棋」と書かれていますが,このブログでは便宜上「将棋ソフト」と記述します

科学と仏教

最近、「仏教って科学的なんだよ」みたいな話を聞きました。まあ、仏教のある側面はそうかも知れませんが「科学と仏教ってむしろ正反対なところもあるよなあ」と思うところがあり、ちょっと書いてみようと思いました。

さて、何を思ったのかと言えば、科学は「固める営み」で、仏教は「ほぐす営み」なんじゃないかと思ったわけです。

まず、科学の方から。(少なくとも現在の) 科学の重要な特徴のひとつに再現性があります。一回きりの事象からは理論が導けないからだと思います。再現性のある事象を見出して、理論化する、ということが、科学という営みの特徴的なところかなあと思います。時時刻々と過ぎ去る様々な現象の中から変わらないものを見出すわけです。だから科学は「固める営み」と言えるんじゃないかと思います。

一方で、仏教は、私たちが時時刻々と過ぎ去る様々な現象の中から「これは変わらない」と思うものに対して「本当にそうかな?」と問うものだと思います。「太陽は西から昇る」という命題でさえ、明日には天変地異が起こって太陽が東から昇るようになるかも知れません。仏教の考え方というのはこういう意味で「ほぐす営み」と言えるんじゃないかと思います。

そういう意味じゃ、仏教ってのは社会構成主義とか脱構築とかの先取りとも言えるんですかね。まあ、そちらの方面はよく分かりませんが。